あなたの❝小さな❞物語 Life Stories プロジェクト 

アクティビティ

愛知県春日井市に、「かすがい市民文化財団」という公益財団法人があります。
この財団では毎年、「あなたの❝小さな❞物語 Life Stories プロジェクト」と銘打って、自分史のテーマを掲げ全国から作品を募集しています。
この財団では、平成12年度にこのプロジェクトを立ち上げ、昨年度までで22回を数えます。
私はこのプロジェクトに、令和3年度(第19回)と令和6年度(第22回)に作品を応募しました。
幸い二度とも入選を果たすことができました。
テーマは第19回が「かおりのきおく」、そして第22回が「待つ」でした。
第20回までは入選作品が多く、本に掲載されていました。
第21回から入選作品を14~15点程度に絞り、A6版の小さな冊子に掲載されるようになりました。
第22回は全国から261点の応募があり、15点の作品が入選になりました。
入選した作品の年齢層は、8歳から88歳までと幅があります。
それでは、私の作品をご紹介します。

わが家のキウイフルーツ                    
                                  静岡県 奈女田 功

 私の実家の裏山には、キウイ棚がある。国鉄職員だった父が、26年前に作ったものだ。このキウイ棚の管理はやがて母に引き継がれ、今では私と次弟が受け継いでいる。
 早期退職した父は、まだ仕事をしていた母や私たち夫婦の代わりに、孫たちの面倒を見てくれた。孫たちが小学校に入学し手がかからなくなると、孫の世話の合間を縫って、こつこつとキウイフルーツの栽培をはじめた。
 父は近所の園芸店で雄木と雌木を購入し、日当たりと風通しのいい裏山の斜面に植えた。やがて苗木が成長し、つるが伸びはじめると、ホームセンターで単管パイプを購入し、得意の日曜大工の腕前を発揮して棚を作りはじめた。
「おやじ、そんなもので何を組み立てるんだ?」
「キウイ棚だ」
「キウイ棚って?」
「この苗がな。棚の高さまで上に伸びていって、この棚に到達したら今度は左右に広がって絡みついていくんだ」と棚仕立てについて説明してくれた。
「どのくらいで実がなるんだ?」
「そうだな。早くて二年ってとこかな」
 その頃、私はまだキウイフルーツなるものが、どのように育つのか知らなかった。父はにこにこしながら、「できたら食わせてやるからな」と目を輝かせた。私はキウイフルーツなんて本当にできるのかな、と半信半疑だったが、父は本気で実がなる時期を指折り数えて待っているようだった。
 それから一年後に花が咲き、2年後の10月に父が話していたとおり、見事にキウイフルーツが実った。
「収穫してもすぐには食えねえんだ。リンゴと一緒にビニール袋に入れて、一週間くらいねかせておかねえとな」
 それから1週間後に、父はビニール袋からキウイフルーツを取り出し、皮をむいてから「食ってみろ」と言った。
「うめえ!」
 初めて食べるキウイフルーツは、芳醇な香りと上品な甘味に、ほどよい酸味のある絶妙な味に仕上がっていた。そのときの父の得意満面な顔は、今でもはっきりと覚えている。
 ところが、それからまもなくして粉雪が舞い散る12月8日、父は78歳の誕生日を待たずして帰らぬ人となった。脳梗塞、糖尿病、心筋梗塞、悪性リンパ腫などが父の体を蝕んでいた。喫煙、深酒に加え孫の世話などの心労も重なり、父の体はボロボロだった。
 父がキウイフルーツの栽培をはじめてまもなくした頃、母は建設会社を退職し、父とともにキウイフルーツの管理をはじめていた。5~6年ほど一緒に世話をしていたが、父が他界した後は、母が一人で引き継ぐことになった。
 母は働き者でキウイフルーツの栽培のほかに、茶の管理や野菜作りもしていた。その頃の私は教員の仕事に追われ、母の手伝いをすることはほとんどなかった。
 やがて、私も妻も仕事の関係で実家を離れ、都会にマンションを購入して暮らすようになった。母はたった一人で実家で暮らし、相変わらずキウイフルーツやお茶、野菜の管理を続けていた。
 そんな折、実家の隣家の方から、母が救急車で搬送されたと連絡があった。2月1日の雪がしんしんと降る寒い日だった。母は自分で救急車を呼び、都会の病院に収容された。私と妻が病院に駆けつけたときには、緊急手術の真っ最中だった。病名は複雑性腸閉塞と診断された。手術が終わって病室に行くと、気丈な母が「ありがとね」と弱々しい笑顔を見せた。
「母さん、働き過ぎだよ。ゆっくり休めよ」
「そうだね。体を治してから、またぼちぼち畑仕事をするよ。それまでキウイの世話を頼んだよ」
「ああ。心配するなよ。俺が何とかするから」
 そう元気づけてはみたが、どんなふうに世話をしたらいいのか、皆目見当がつかなかった。母の願いをかなえるために、次弟と相談しながら、キウイフルーツの世話をすることにした。
「キウイってのはな。ただほっておいてもダメなんだぜ。冬と夏の二回剪定しねえとな」
 次弟はどこでそんな知識を身につけたのか知らないが、自信ありげにそう言ってから、「俺が剪定の講習を受けてきて、剪定してやるから心配すんな」と付け加えた。
 母が緊急手術を受けて10日余り経った頃、病院から連絡があり二度目の手術をすることになった。手術は無事終わったが、腸の大部分が切除され、母の体内には人工肛門が取りつけられた。妻と病院に見舞いに行ったとき、幾分元気のない様子が気がかりだった。
「ありがとね。キウイ順調だかね?」
「ああ。時々実家に帰って、部屋の掃除をしながら様子を見てるから心配すんなよ」
「五月ごろに花が咲くからね。花が咲けば必ず実がなるからね」
「わかったよ」
「それから、剪定はしたかね?」
「ああ。靖が一月にやってくれたよ」
「そう。やり方がよくわかったねえ」
「あいつ、講習受けてきたんだぜ」
「靖がねえ――。これからも、二人で世話を頼んだよ」
 母は手術後で、一番いい笑顔を見せてくれた。
 その後、母の容体は悪化の一途をたどっていった。もう手の施しようがなく、母は『慢性期病院』に転院して、療養しながら残りの人生を送ることになった。
 4月の桜の花が咲く頃、母の病室を訪れた。
「母さん、今年も実家の桜が満開だよ」
「そうかね。昨日、看護師さんと一緒に外に出て桜を見たよ。きれいだったねえ」
「そうか。よかったじゃねえか」
「功、お願いがあるんだけど――」
「何だよ。改まって?」
「うちのキウイが食べたいよ」
「キウイか――。わかったよ。今年も十月に収穫するから持ってきてやるよ」
「うん。待ってるからね。それまで長生きせんとね」
 そう言った母の顔には、自由に体を動かせない歯がゆさが表れていた。私には働き者だった母の無念さが、手に取るようにわかった。
 あれから半年が経った。今年もキウイフルーツの収穫時期がやってきた。芳醇な香りと上品な甘味に、ほどよい酸味のあるキウイフルーツが実った。楽しみに待っていた母に、もう一度食べさせてやることはできなかった。母は5月3日のゴールデンウェークに、家族に看取られ、眠るように天国に旅立った。
 私の実家は空き家になってしまったが、キウイフルーツと茶の栽培は、妻と次弟夫婦とともに続けている。毎年、10月にキウイフルーツを収穫すると、決まって実家の仏壇に供えている。
「父さん、母さん、今年もキウイできたよ。食べてな」
 仏壇に飾られた父の遺影から、「わが家のキウイは相変わらずうめえなあ」と、そして母の遺影から、「今年もおいしいキウイができたね」と二人の声が聞こえてくる。
 私は毎年、芳醇な香りと上品な甘味に、ほどよい酸味のあるわが家のキウイフルーツを、心待ちにしている亡き父と母の仏壇に捧げている。

                    『令和6年度 あなたの❝小さな❞物語 作品集掲載』

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