佐久間駅伝 ―佐久間路を駆け抜ける―

故郷

1月の最終日曜日に行われる佐久間駅伝は、佐久間町にとっては一大イベントです。走路に起伏がありカーブが頻繁に繰り返されるコース設定になっているので、町内外の参加者にとっては人気のある駅伝大会の一つになっています。
 第1回大会が開催されたのは、昭和48年、私が高校2年生の時です。道路事情によって一部コース変更された年がありましたが、これまでは城西幼稚園前スタート、旧浦川中学校ゴールの6区間26・6キロメートルでした。
ところが、2018年1月31日にコース上の天竜川に架かっている原田橋が崩落しました。橋を吊っていたケーブルが切れ、天竜川に落下したからです。この事故で2人の市役所職員の尊い命が失われました。そのため、翌年からコースが原田橋の手前にある、県立佐久間高等学校ゴールの5区間に変更されました。
 これまでは、1区4・5キロメートル、2区3・4キロメートル、3区4・6キロメートル、4区4・6キロメートル、5区5・1キロメートル、6区4・4キロメートルでしたが、原田橋を通過する5区が2・9キロメートルに短縮され、6区がカットされたのです。
かつてはエントリー数の上限がなく、100チームを超えるエントリーがありましたが、浜松市になってからは予算の関係で100チーム限定になりました。市外だけでなく他県からの参加者も多く、遠くは川崎市からの参加チームもあります。部門は、中学校男子、女子、一般、町内在住・在勤の4部門です。
 選手送迎用の大型バスが各中継地点まで選手(従来は付き添いも)を送迎したり、選手のために豚汁のサービスがあったりと、町おこしの一大イベントとして、町内外から絶大な人気を誇る駅伝大会になっています。
また、コース上には、監察のために地元ボランティアがいたり、地元の女性がバスガイドを務めたり、当日は佐久間町が活気に満ち溢れています。タイムや順位がすぐに集計され、区間タイムや順位がリアルタイムで掲示され、個人のタイム、部門ごとのタイム、全体の最終タイム、順位を明記した結果表が閉会式後に監督に手渡されるというのも魅力の一つになっています。
 その一大イベントが新型コロナの影響で3年間開催できないままです。今年も早々と中止の連絡があり、中止もこれで4年連続となりました。
 私は地元の住民として、毎年佐久間駅伝に参加していましたが、原田橋崩落後はコースが5区間になったため、地元チームを離れ、弟とチームを結成して一般の部として出場しています。
原田橋崩落前は、浦川地区の「川上鶴ヶ会」というチームに所属していました。しかし、コースが5区間になったため、メンバーから誰を外すかチームで相談した結果、私が自ら志願して外れることにしました。
私には二人の弟がいて、彼らがかねがね佐久間駅伝を走ってみたいと熱望していたので、私が弟たちとチームを組み、出場することにしたのです。メンバーは、私、長弟、その次女、その甥、末弟の5人で、チーム名「奈女田家」として出場しています。
2019年は、私にとっては教員生活での最後のレースになりました。チームのメンバーにわがままを言って、応援が最も多く最も華やかで距離の最も短い5区を走らせてもらいました。持病の「咳喘息」があってまったく自信がありませんでしたが、恥ずかしい走りだけはしたくないと思っていました。前年2区を走った時、低体温症と脱水症状になりチームに迷惑を掛けたからです。「今年は昨年の二の舞にならないようにしよう」という強い決意で大会に臨みました。十分な練習ができたとは言えませんが、天候や体のコンディションが良く、気持ちよく走ることができました。沿道には大勢の知り合いや地元の園児・児童の熱い声援があり、私の走りを後押ししてくれました。チームのタイムも順位も古巣「川上鶴ヶ会」よりはるかに速く、自分にとってもチームにとっても、満足と納得のいく結果になりました。  


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