川 ―佐久間ダム―

故郷

 静岡県浜松市天竜区佐久間町には「天竜川」という一級河川が流れています。長野県の諏訪湖から太平洋(遠州灘)に流れ込む、日本有数の川です。
昔は「暴れ天竜」と呼ばれ、流れが急で多くの災害を引き起こしました。その支流に「大千瀬川」(佐久間町浦川)があり、さらにその支流に「相川」があります。
左の写真はその上流に当たる「瀬戸川」です。私の家のそばを流れています。この写真の栗の木の下に私たちは家を作りました。小学生の頃、幼なじみ5人と一緒にこの家を拠点にして「河原めし」を行いました。その話はまたの機会にします。
 それでは、天竜川に造られた「佐久間ダム」の歴史について紐解いていきます。8年ほど前に静岡新聞で「地域と歩む 佐久間ダム60年」が特集されていました。そこには、次のような内容の記事が載っていました。

 1956年、私が誕生した年に完成した(着工は1953年)佐久間ダムは、今年60年を迎えました。着工からわずか3年、外国の先進技術を導入しての革新的・画期的な大規模事業でした。当時としては、ダムの高さ(155メートル)と幅(295メートル)、電力量は日本一でした。
中部(なかべ)在住で、社会福祉協議会会長のNさんは、工事に携わった一人として、当時の巨大ダムについて、次のように感慨深く語っています。
「当時では考えられない外国の技術や機械に驚かされてばかりだった。「暴れ天竜」と言われた天竜川をせき止め、ダムを造ることは容易なことではありませんでした」
 これは、政府の出資母体だった電源開発株式会社(通称Jパワー)が威信を賭けた大規模工事だったのです。工事関係者約3,000人、佐久間町には歓楽街もでき、中部商店街は映画館やパチンコ店など、50店舗以上も軒を連ねたそうです。ダム完成後は、翌年に天皇陛下が訪れ、休日には1万人以上もの観光客で町が溢れかえりました。中部天竜駅からダムまではバスが運行し、ダムには土産店もでき、ダム湖には遊覧船も浮かびました。日本各地から、日本一のダムをひと目見ようと、観光バスに乗った観光客がたくさん訪れ、飯田線は多くの外国人で賑わいを見せました。当時の経済効果は絶大で、町全体の産業や経済が潤いました。

ところが、ダム完成から二十年後には地域の産業が衰退に向かい、50店舗もあった中部商店街には、現在わずか10店舗しか残っていません。当時、26,000人あった人口は、1978年には1万人を切り、今ではわずか3,800人足らずしかいません。人口減少の背景には、若者の働き場所がないこと、基幹産業の林業が衰退したことなど、若者にとって魅力のない町になってしまったことがあげられます。浜北や浜松市中心部、愛知県新城市や豊橋市に転居する人が増え、活気のない佐久間町になってしまいました。過疎化が進む中でも、佐久間町にはダム事業を手掛けた電源開発株式会社グループの社員が現在、99人暮らしています。そのうちの26人は佐久間町出身者です。佐久間電力所のT所長は町外出身者ですが、次のようにコメントしています。
「町の衰退を何とか食い止めたいのです。ですから、〈フェスタさくま〉、〈佐久間ダム竜神まつり〉などに積極的に協力するつもりでいます」
地元住民ではない方も、衰退する佐久間に憂いを感じ、何とか魅力ある町にしていかなければならないと考えてくださっています。私たち地元住民も、今後佐久間町をどう守り抜いていったらよいか、真剣に考えなければなりません。

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