我が駅伝人生(あゆみ)

ランニング

 1998年(平成10)1月が僕の駅伝デビューの年でした。42歳のときです。それから、2015年(平成27)までの17年間は地元の駅伝チームのメンバーとして走り続けました。しかし、その翌年、駅伝コースの一部にある原田橋がワイヤー切断により崩落しました(このことについては、カテゴリー:故郷「原田橋崩落」の中で触れていますので、お知りになりたい方はそちらをご覧ください)。そのため、6区間あったコースが5区間に変更になりました。当然6人のメンバーのうち、走れない選手が1人出るわけです。チームのメンバーで話し合った結果、僕がチームを去ることになりました。自分から申し出たのです。あとから駅伝チームに加わった立場として当然の選択です。そして、僕は新たに次男、末弟、次男の娘、次男の友人の5人でチームを編成しました。このチームで4年間走った後、新型コロナウィルスの影響で現在駅伝大会が中断しているのです。

 さて、話は1986年(昭和61)までさかのぼります。僕は大学を卒業した後、4年間清水市(現静岡市清水区)で教員として仕事をしていました。その後、実家のある浜松市天竜区佐久間町(当時は磐田郡佐久間町)に帰ってきました。僕が29歳のときです。
 翌年、僕は地元の消防団に加入しました。それから、9年後に消防団の精鋭たちが6人で駅伝チームを作り、2年間地元の駅伝大会に出場しました。ところが、今一つ成績が振るわず、足の速いメンバーを探していたのです。
 僕は中学生から大学生までずっとスポーツをやっていて短距離の方は速かったのですが、長距離はそれほどでもありませんでした。それでも、監督は「短距離が速ければ、長距離だって速く走れるさ」と理由にもならない理由で僕を強引に誘いました。僕は大学卒業後しばらくスポーツから遠ざかっていたので、運動をはじめるには絶妙のタイミングでした。二つ返事で誘いを受け入れ、晴れて地元の駅伝チームのメンバーになったのです。
 それでは、これから何回かに分けて、僕の駅伝人生(あゆみ)についてご紹介していきます。さらに、駅伝の補強というわけではありませんが、駅伝チームに加わったタイミングでロードレース大会にも出場するようになったので、そのことについても後半で追々ご紹介していくつもりです。乞うご期待を!

 

 

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地元「佐久間駅伝」を舞台にした、私小説です。

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