1872年、西洋の技術を導入して設立された官営「富岡製糸場」

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 今でこそ「働き方改革」を推進し、併せて女性が活躍している企業が増えていますが、1872年、明治5年にすでに「働き方改革」を導入し、女性の活躍する場を提供した画期的な職場がありました。群馬県富岡市にあり世界遺産として登録された、「富岡製糸場」です。それでは、今から富岡製糸場についてご紹介します。

なぜ富岡市が選ばれたのか?

 明治政府は産業の近代化を進めるにあたり、外貨獲得のために生糸の輸出に力を注ぎました。そのターゲットして白羽の矢が立ったのが、古くから養蚕が盛んで広い土地豊かな水のある富岡市だったのです。

工場設立までの経緯

 生糸技術者、フランス人ポール・ブリュナをはじめとするフランス人10人を雇って、近代的な製糸技術を導入しました。併せて全国から工場で働く女性工員(工女)を募集しました。工場などが立ち並ぶ敷地面積は実に、55,391,42㎡というとてつもない広さでした。

工女の待遇

 月給制、平均労働時間約8時間、週休6日制で日曜日が休日、それ以外に年間10日の休暇がありました。敷地内に寄宿舎や診療所が完備され、食費や寮費、医療費は無償で提供され、制服も貸与されていました。当時としては破格の労働環境でした。この工場が女性の社会進出の場をいち早く提供したのは、まさに画期的な出来事でした。

工女の住居

 全国から集められた約400人の工女たちは、全員寄宿舎に住んでいました。その中には、フランスから派遣された4人のフランス人工女(指導者)もいました。

診療所

 工女の中には北海道から来た4人の14歳の女の子たちがいました。高額な給料を貰ってもそれをどのように使ったらいいのかわからなかったと言います。多感な少女たちでしたが、体の具合が悪くなったり病気になったりしても、敷地内には「診療所」があって安心して働くことができました。

工場内外の様子

 工場の建物には思いの外たくさんの窓がありました。これは換気のためにつくられた窓です。すべての建物の外壁はレンガ造り(木骨煉瓦造り)で、工場内には柱が一本もありません。また、電気がなかったので採光のために、建物側面にたくさんの窓を設置したのです。

技術革新

 それまでは手でコツコツと生糸を作っていましたが、機械化によって生糸の大量生産を実現したのはまさに、技術革新そのものでした。

ポール・ブリュナの住居

 敷地内にはポール・ブリュナの家族の住まい「首長館」がありました。100坪の住居に家族4人が暮らしていました。彼が帰国した後には、工女たちの夜間学校として使われました。

富岡製糸場のその後

 富岡製糸場は1893年(明治26)に三井家に払い下げられ、その後、1902年(明治35)には原合名会社に譲渡され、1939年(昭和14)には「片倉製糸紡織株式会社」(現片倉工業株式会社)に合併されました。

おわりに

 明治政府が外国に追いつけ追い越せという理念のもと、先進的に生糸生産を行っていたフランスの技術を取り入れて富岡製糸場をつくったのは、当時としては画期的なことです。それから、この時代にすでに女性の社会進出の場を与えていたのも驚きですし、働き方改革に着手していたのも素晴らしいことです。この時代にすでに現代に繋がる働き方の礎が築かれていたのです。

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